思いがけず、強く記憶に残る瞬間がある。
それは大げさなイベントでも、劇的な出来事でもない。ただの何気ない時間。だけど、なぜか忘れられない。それはたぶん、空気の温度とか、風の匂いとか、誰かの言葉じゃなくて、自分の中にだけそっと残っている「静かな揺れ」みたいなもの。
その日も、特別なことなんてなかった。
仕事帰り、少しだけ早く終わっただけの平日。スマホをポケットにしまって、ヘッドフォンもつけず、ただ歩いて帰る。いつも通らない川沿いの道にふらっと足が向いたのは、空がきれいだったからだと思う。
夕方の空は、昼の忙しさと夜の静けさの間をつなぐ、唯一無二の時間。
オレンジと青が混じりあって、風がほんの少し冷たくなりはじめる。その空気の中で、ただ歩く。車の音も、人の話し声も、どこか遠くに感じて、自分だけがスローモーションの世界にいるような、不思議な感覚。
歩きながら、「あ、こういうのを幸せって言うのかもしれない」とふと思った。
なにかを手に入れたわけじゃないし、目標を達成したわけでもない。だけど、今この瞬間、心の中がふっと軽くなって、「生きてる」って感じがした。
日常はいつも忙しくて、気を抜く暇もなくて、つい先のことばかり考えてしまう。
でもこうやって、何も考えずにただ風に吹かれているだけで、心が整っていくような気がするから不思議だ。心の深呼吸って、こういう時間にできるんだと思う。
たった30分の遠回り。でも、そこにはぎゅっと詰まった静かな感動があった。
あのときの風、空の色、そして「なんでもないのに泣きたくなるような」気持ち。すべてが、思いがけず大切な記憶になっていた。
きっと、また思い出すんだろう。
何かに追われた日や、少し疲れたときに。
「そうだ、あの日の風みたいに、ゆっくり深呼吸してみよう」って。
だから今日も私は、ほんの少しだけ、遠回りして帰ることにする。